「ハイコンテクスト文化」

野瀬純郎

 コミュニケーションについて論じるとき、キーワードのひとつに“コンテクスト(context)”というものがあります。共通の知識、体験、価値観、環境、状況などのことで、コミュニケーションの拠り所となるものです。日本語では“文脈”と訳されています。
 “もの”や“こと”を認識したり感じたりするとき、背景や経緯、関係などを無意識のうちに考慮して、全体の文脈のなかで捉えるということは、われわれ日本人にはごく当たり前のことですが、これが相手が欧米人となるとなかなかこうはいかず、戸惑うことが多いとはよく聞く話です。人生について語り合っているようなときに、ひらいた手を見て、そこに宇宙を感じるなどと言っても、禅にかぶれていない一般の欧米人の相手にはチンプンカンプンで、逆にいい加減なことを言うなと逆襲されるかもしれません。彼らには、手は前肢の末端にある器官で、手首、掌、甲、5本の指からなり、指の骨は・・・、皮膚は・・・となります。これではコミュニケーションが成り立ちません。
 “もの”や“こと”を文脈のなかで認識する文化を、アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールは「ハイコンテクスト」と呼びました。余分な説明が要らない「阿吽の呼吸」や「一を聞いて十を知る」というコミュニケーションスタイルで、今ならさしずめ「空気を読む」ですね。
 これに対して、欧米人は“もの”や“こと”を対象物として周りの関係から切り離し、その特徴を抽出し、カテゴリーに分類します。別の対象物が与えられると、その特徴からどのカテゴリーに属するかを判別します。単純で直線的であります。特定の“もの”や“こと”とその特性や属性だけに焦点を当てる文化を、「ローコンテクスト」と呼びます。
 前述のホールの調査によりますと、日本が世界で最もハイコンテクスト社会で、中国、韓国が続きます。逆に最もローコンテクスト文化の国はスイス、ドイツ、アメリカなどの欧米の名前が並びます。やはりそうだろうと頷けます。
 このコンテクストという言葉から発想して、ロータリークラブ入会3年目の感想の一部について述べてみます。最近私が違和感を覚えるのは、あまりにも「××とは」という議論や勉強会が多いことです。曰く「××奉仕とは」、曰く「××精神とは」、曰く・・・。そして議論の背後には必ず「綱領」、「標語」、「定款」、「細則」、「決議」、「テスト」などが控えています。これらが「例会」、「××協議会」、「××大会」、「××セミナー」、「××プログラム」などで繰り返し実施されます。入会して間もないというならまだしも、20年、30年の会員歴の方々を含む全員が熱心に勉強し、議論されます。普通の企業で定款とは、社是とは、企業理念とは、行動規範とは・・・と、これほど熱心に勉強、議論する光景は見られません。何故ここまでするのか、非常に不思議に思います。
 そこで思いついたのがコンテクストです。ロータリークラブはローコンテクストのアメリカで生まれました。そして組織が大きく育ち、多様な人々が集うにつれ、本来の理念を忘れないように、そこから外れないようにと弛まぬ努力をしてきた結果が、このような膨大な議論を繰り返す文化になったのではないかと推察します。まさに「ハイコンテンツ(high contents)」の世界です。そのカタチをハイコンテクストの日本でそのまま受け入れ、保持しようとしているところに、私の違和感のもとがあるようです。
 グローバル社会では、コンテクストに依存したスタイルではなく、コンテンツが明確なコミュニケーションが必須であり、よって日本人も明確な言葉とロジックを重視し、論理的な思考力、表現力、交渉力などを身につける必要がある云々という論調が多くなってきました。一面では当然のことと思いますが、それも“場”によるでしょう。ハイコンテンツ対ハイコンテクストと煽るつもりはありませんが、日本独自の文化に根ざしたコミュニケーションのカタチというものがあるのではないでしょうか。11月のインターシティ・ミーティングで、パストガバナーの小澤秀瑛氏が「例会には小細工なしで無心で出席しましょう」と語られていました。まさにハイコンテクストの極みです。コンテクストにまったく依存しない、コンテンツのみを重視することをコンテクストフリーと呼びますが、そんな味気ないクラブライフは御免蒙りたいものです。