「音を感じる」

野瀬純郎

 私は音楽を聴くのが好きで、中でもバロック音楽が一番の好みです。ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート、チェンバロ、ブロックフレーテの世界です。母が音楽好きだったので、小さいころから我が家にはいつもクラシック音楽が流れていました。その影響でしょう。今でも感謝しています。
 その大好きな音楽に関して、長年あることに引っ掛って、悩ましく思っていたことがありました。それは、音楽を聴きながら本を読んだり、ものを書いたり、思索することができない、ということです。耳に入ってくる音楽が邪魔になって、気持ちが集中できないのです。いわゆるBGMにならないのです。何故美しい音楽を聴きながら本が読めないのか、不思議でなりませんでした。
 その謎は脳の働きの仕組みを知ったときに解けました。脳は左右の半球に分かれ、脳梁とういう神経線維の束で結ばれています。左脳は別名言語脳と呼ばれ、主として言語による分析的・論理的思考を司ります。一方、右脳は別名音楽脳と呼ばれ、主として非言語的な感覚的・総合的思考を司ります。ところがことばと音楽が同時に耳から入ってくると、その刺激は両方とも左脳に行ってしまうというのです。そうすると本来ことばを判断する左脳が、チェンバロの音色を美しいと感じるはずもありませんから、私はイライラしてしまうのでしょう。
 ついでに、ここまでの話で容易に想像できると思いますが、音楽を聴きながら絵を描くことはできます。できますというより、大いに触発されることが多いですね。
 さて、本題はここからです。ひとくちに音といっても楽器の音、街の騒音、虫の音、エヤコンの音など多種多様ですが、これらを受容する脳の機構に、日本人とそれ以外では顕著に異なる部分があるのです。日本人以外(西欧人はもちろん、お隣の韓国人や中国人も含まれます)はことば以外のどんな種類の音でも右脳で処理します。それに対して日本人は西洋楽器の音や機械音、雑音は他国人と同じように右脳で処理しますが、三味線や尺八などの邦楽器の音、鳥や虫の鳴き声、小川のせせらぎなどの自然界の音、泣き声、笑い声などの感情音はことばと同じ左脳で受容します。ですから読書中にコオロギの声が聞こえてきても邪魔にはなりません。
 日本人の脳の中で邦楽音、自然の音、ことば(日本語)が一体化して左脳でとらえられるようになった背景には、湿度が高い自然環境、畳・襖・障子などの吸音材に囲まれた住環境、母音中心の言語環境などが考えられるようです。ひとことでいうと“響かない環境”で、多様な音や響きに対する繊細で豊かな感性が育ったのでしょう。その人にとって重要な音に対しては、より強く反応するよう、次第に脳が変化していく、具体的には神経細胞の数が増えるのです。
 最近中村明一という尺八奏者の演奏を聴きました。虚無僧尺八です。聴きましたといっても残念ながら高調波がカットされたCDですが、それでも優に100KHzを超える音(倍音)が出ているのは容易に想像できました。最初の数音が脳に届いた途端、驚愕のあまり目を見ひらいて居住まいを正す間もなく、スーッと深い森に吸い込まれるような感じがしたと思うと、風が私の身体の中を吹き抜け、しばらくその渦の中で翻弄されるうちに、次第に自分の重心が下へ下へと沈み込んでいくようでした。超絶技巧が生み出す信じ難い響きの重なりと広がり、しかし静謐な空間でした。一本の竹から響く音が、私の脳の中にまさに音楽、自然音、ことばが一体化した宇宙を築き、私という個は遠くへ飛翔し、消えてしまいました。
 もし、柳田泰山先生が“鶴の巣籠”という鶴の一生を通して「大慈大悲」を表した曲の演奏を聴きながら書を書かれたら、どのような世界が広がるのか、想像するだけで呼吸が深く、ゆっくりしてきます。
 日本で育ち、日本人の脳を持ち得たことに感謝し、これからも日本の音と色をしみじみと味わっていきたいと思います。