「機心」

野瀬純郎

 最近電車に乗ると、多いときは半数以上の人が、片手に持った機械とにらめっこしている姿を目にします。携帯電話、スマートフォン、PDAなどという、叱られるかもしれませんが――まあ大人のオモチャみたいなものです。メールを書いたり、飲み屋を探したり、小説を読んだり、夕食のレシピを調べたり・・・と、みなさんいろいろ忙しそうですが、何といっても一番多いのはゲームでしょうか。
 この何とも言えない異様でさびしい光景を見ると、機械を使っているというより、機械に使われているという印象が拭えません。そして反射的に“機心”という言葉が思い浮かびます。
 昔、若い頃に禅に魅かれ、お寺で僧侶の講話を聴いたり、本を読んだりしているなかで、“機心”という言葉を知りました。荘子の外篇といわれる『天地篇』にのっている寓話からです。おおよそ次のような内容です。
 『あるとき孔子の弟子の子貢が、一人の百姓が田に働いているのを見つけた。その百姓は田に水をやるのに、掘った井戸へ下りて行って、いちいちバケツに汲んでは田に運んでいた。その労力は大変なもので、見かねた子貢はそれはいらぬ労力だ、はねつるべというものを使えば大いに楽になると勧めた。百姓は、それは知っているが、機械に頼ると機心というものが出てくる。それは力を省いて、功を多くしようという心持ちだ。それがいやだ。この考えが胸中に浮かぶと、心の純白性が乱れ、不安定になる。これは道に反する。ものに制せられるのは好まない、だからはねつるべは利用しないのだ、と答えた。』
 つまり、“機心”というのははかりごとをめぐらす心で、機械を使っているつもりがその実使われてしまい、揚句に人の道をはずしてしまうよ、と戒めているのです。かの鈴木大拙居士は「機心なるものは、われらの注意を絶えず外に馳らしめて、相関的な利害得失に夢中ならしむるのである。」と説いています。
 この“機心”という言葉を嘗てなかったほどに強く納得し、自分を戒めた事件、それがこの度の東日本大震災を契機に露呈してきた原発問題です。政府、自治体、電力会社、住民、マスメディア・・・、これらが夫々のはかりごとを胸に抱いてうごめくさまは、とても正視できません。まさに人の道をはずしています。
 大拙居士は続けて述べています。「機心の囚となったものは、消極的にも積極的にも、人生の尊厳に対して冒涜の行為を犯して、自ら何も気がつかぬということになる。いかにも情けない。」
 先ほどの電車の光景はまあ他愛のない話で済むかもしれませんが、今回の事件で明らかになりつつある原発問題から、国民は全員決して逃げてはなりません。これを政治とか技術とか経済の問題にして片づけてはなりません。まず最初に心の問題です。
 どんな人のことも決して悪く言わない婦人がいました。意地の悪い人が「あなたは悪魔をどう思われますか」と問いました。婦人はしばらく考えて「とにかく彼は勤勉です」と答えました。