「ノン・フィニート」

野瀬純郎

 芸術の世界で何かを表現したいときに、そのモチーフが目に見えない精神的なものである場合は特に、作品を未完成のままにしておくことがあります。これをイタリア語でノン・フィニート(Non Finito)といいます。例えばミケランジェロの彫刻『ロンダニーニのピエタ』やスケッチ『十字架上のキリストと聖母、聖ヨハネ』が有名です。
 敬虔なカトリック教徒であったミケランジェロは、神の愛を表現したいという強い願いのもとに大変な格闘を続けた揚句、打開策として受け入れたひとつの方法がノン・フィニートであったといわれています。つまり、彼は作品に曖昧さを残し、未完成にしておくことによって鑑賞者の想像力をかきたて、作品を前にした鑑賞者がそれぞれの脳の中にある多くの概念、すなわち蓄積されている表象を当てはめることができるようにしたのだ、という説です。未完の美といわれます。
 この通説が私を悩ませます。あのルネサンス期のイタリアの偉大な彫刻家、画家、建築家である巨人が、自分の作品の完成を、鑑賞者個人の想像力に委ねるなど、とてもああそうですかと受け入れることができません。もちろん彼の才能では手が届かなかったが故の未完成ではなく、深く意図したものであろうと感じます。しかしそれが観る者個人の感性に委ねてお仕舞いとは・・・。
 分析心理学で有名なカール・グスタフ・ユングは、無意識には個人的なものの対として、「集合的無意識(Collective unconscious)」という概念を提唱しています。すなわち人間の無意識の深層には、個人の経験を超えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な力量です。先ほどの未完成の作品を鑑賞するとき、それぞれの人の意識の深層にこの集合的無意識が作用しているのだとしたら、なるほど少しは頷けます。しかし、まだ腑に落ちません。そういう受け身的な話ではなく、さらに一歩踏み込んだ見解があるのではないかと思うのです。
 話は変わりますが、「間(ま)」という言葉があります。通常は時間の間隔、あるいは空間の間隔のことをいい、インターバルあるいはスペースのような、そこに何もないという意味合いで使われます。ところが、わが国の伝統芸能でことさらに重視される間はこれとは大いに異なります。「間は魔に通ず」といわれます。九代目団十郎は「踊りの間というものには、教えられる間と教えられない間がある。教えてできる間は「間(あいだ)」という字を書く。教えてもできない間は「魔」の字を書く。」といっています。この、教えようのない魔(凄い間)は単なるインターバルとかスペースといったものでないことはいうまでもありません。むしろ、いいようのない何かが濃密に詰まっている感があります。異界に触れる感じです。そこでは、間はもはや「従」の存在ではなく「主」の位置にあるといっていいでしょう。
 カンヴァスの上に描かれた描線や色面の部分と、その隣にある余白の部分は、対等の価値があります。彫刻は刻まれた像と周りの空間も含めて作品です。カンヴァス上の余白や彫刻の周りの空間は、いわば間(ま)です。とすると、ロンダニーニのピエタのまだ彫られていない部分あるいは欠けて形がない部分、すなわち凄い間、を観るとき、私はそこに未完どころか究極の完成像を発見します。ただし、その間は決してそこに永遠にとどまる固定したものではなく、一瞬の後再び動き出す、数学の言葉で『微分』ともいうべきものなのです。
 以上はまったくの芸術の素人が感じた、偏見に過ぎません。