「植物の名前」

野瀬純郎

 大学時代の友人のひとりに、M君という農学部の学生がいました。私は工学部でしたが、一緒にいるときはいつも哲学とか宗教、思想などの難しい議論をしたものです。何時間も街を歩きながら話に熱中することがありましたが、彼はよく議論の合間に、路傍や庭先で目にした草花や木の名前を教えてくれました。これはテッセン、あれはニセアカシア…といった具合です。それからおもむろに「人間の場合と同じで、植物も名前を憶えると、知らないときに比べてずっと親しみを感じるようになるから、君も努力しなさい。」などと言うので、さすがに農学を勉強している者はいうことが違うなと感心したのを思い出します。
 最近はボタニカルアート(植物画)を楽しんでいる妻に連れられて、山歩きをしながらいろいろな植物の名前を教えてもらっています。あまりにも種類が多く(日本の植物の種類は6000種程度)、一日に2~3個憶えるのが精いっぱいで、それも家に着くころには忘れてしまうという体たらくです。それでも花や葉の形・色の印象や、薬・香料・染料に用いるなどの特徴も併せて観察すると、なかなか面白いもので、それこそ大いに親しみがわいてきます。
 植物の名前は人間が勝手に便宜的につけたもので、本人たちはまったく与り知らぬこととはいえ、なかには気の毒になるものもあります。少し紹介します。
 「オオイヌノフグリ」……寒い冬のさなかにも緑を保ち、早春にいち早く小さな瑠璃色の美しい花を咲かせて、春の訪れを感じさせてくれます。その可憐な姿からはとても「大犬の陰嚢(ふぐり)」など連想できませんが、実の形が後ろから見た犬の股間に見られるそれに似ているからだそうです。何とも無粋なネーミングです。千葉県には「星の瞳」と呼ぶ地域があるそうで、こちらのほうがずっとイメージがマッチしますが、一般に普及しないようですね。
 「クサレダマ」……黄色い5弁の花を沢山つけ、湿地にスッと立っている姿を見たとき、どうしてこれが「腐れ玉」なのか、可哀そうではないか、いい加減な名前をつけるんじゃないよと同情しました。ところが調べてみますと、レダマというマメ科の木に似ていて、草なので「草レダマ(草連玉)」と呼ぶことにしたそうです。でも実際は花の色が黄色である以外、少しも似ていないのです。やはりいい加減な名前でした。ちなみにクサレダマはサクラソウ科です。
 「ママコノシリヌグイ」……草むらを歩いていて、気づかずにこの植物に触りますと、手は引っ掻かれて猛烈に痛く、衣服にしつこく纏わりついて難儀します。何だ何だと慌てて見回しますと、ピンクの金平糖のようなかわいらしい花をつけた「継子の尻拭い」です。葉や茎にするどい逆棘があります。それにしても、継母が継子をいじめる道具に見立てるという残酷な発想が生まれる社会が、実際にあったのでしょうか。花言葉は何故か“変わらぬ愛情”です。
 この他にも「ヘクソカズラ」、「ハキダメギク」、「ゴンズイ」、「ヨゴレネコノメ」などなど、まことに申し訳ありませんと謝りたくなるような名前が続きます。ところが、ちょっとでも彼らの生態を調べると、当方のそんなセンチメンタルな考えとは無縁の、したたかな生き方を学ばせてくれます。
 一例として“節目”を取り上げてみましょう。茎に節目を作って成長する雑草(例えばツユクサ)があります。この節の形成は、茎を伸ばすという観点から見ればひと休みということになりますが、実は重要な役割を果たしているのです。雑草は人や動物に踏まれ、風雨に晒され、時には鎌で刈られ、と苦難の連続で、成長するのは楽ではありません。そのような苦境の中で、もし茎が倒れたり、折れたりしたときは、節目から地面に根を下ろし、そこから再び成長を始めるのです。つまり節目は成長の軌跡であると同時に、再出発の原点でもあるのです。ただ闇雲に伸びただけの茎は、何かの理由で茎の先が折れてしまったときは、枯れてしまう外ありません。節のある成長は強いのです。人のこと、組織のことに当てはめると、考えさせられますね。