「匂いを感じる」

野瀬純郎

 以前このコーナーで「色を感じる」、「音を感じる」という話をつぶやきましたが、そのノリで“匂い”について書いてみたいと思います。といってもついでに書くというわけではなく、実は五感の中で嗅覚を最も不思議に感じているので、その一端を披露してみます。科学的にもまだ解明されていないところが多いようです。
 地球上の有機化合物200万種のうち、匂いを持つ物質は約40万あり、そのうち10万程度は人間が嗅ぎつけることができるそうですが、未だに匂いの質や強度を客観的に表すことができません。光や音は波長や振動数、ルックスやデシベルなど物理的な基準で説明できますが、匂いはだめです。同じ物質でも濃度の違いで感じ方が大きく変化しますし、嗅ぐ人の心理、体調、性格、年齢などの条件によっても微妙に変わってきますので、厄介なことです。匂いを感知するメカニズムにも化学説あり、振動説あり、輻射説あり、波動伝播説ありと、定まりません。
 左右の2つの鼻の孔を通ってくる匂いを比較して、匂いの所在を確認するという方法は目や耳の場合と同様ですが、情報が脳に伝わるとき左右の交叉はありません。つまり、目や耳の場合は右側の器官でとらえた情報の信号は左脳に、左側の情報は右脳にクロスして届きますが、鼻の場合は右側は右脳、左側は左脳にストレートに行きます。そしていい匂い(香り)は主として左脳で、不快な匂い(臭い)は右脳で処理されるそうです。何故かは解っていません。
 また、どんなに強い匂いであっても、数分も経つと気にならなくなったり、感じなくなります。嗅覚の疲労現象とでもいうのでしょうか。ところが脳の中を調べると、匂いが感じられなくなったあとも、情報の信号は消えずに継続しているのです。これも何故かは解っていません。
 ある匂いを嗅いだとき、瞬間的に昔のある場面や出来事を思い出すという経験は誰にもあると思います。恐縮ですが私の場合でいえば、例えば沈丁花の香りを嗅いだ途端、結婚する前の妻の家を辞して、駒込に行くバス停で彼女と別れるときの情景が蘇ります。本当に瞬時に、鮮やかに、正確に記憶が呼び出されます。これを“プルースト効果”と呼ぶそうです。匂いそれ自体を記憶できないにも関わらず、状況と結びついて思い出すというのは、視覚や聴覚とはかなり違う感覚です。
 五感のなかで嗅覚だけ、先ほど紹介したクロスしないということとは別に、他とは感覚情報の伝わり方に大きく異なる点があります。視覚、聴覚、味覚、触覚の情報は受容細胞から大脳皮質(新しい脳)を経由して大脳辺縁系(古い脳)に到達しますが、鼻から入った嗅覚情報は、中継なしに直接大脳周縁系に入ります。この大脳周縁系は海馬、扁桃体などを含み、感情の源である快/不快、喜怒哀楽といった人間の情動を支配する中枢です。情動脳とも呼ばれます。このため、嗅覚は五感の中で最も感情や気分に大きく影響を与えるといえます。つまり、快/不快、好き/嫌いの感情が音、色、触感などに比べてはるかに強いのです。何しろ意識にのぼる(大脳皮質に届く)前に感情反応が起きてしまうのですから。
 個体と種の保存にとって、嗅覚は最も重要な感覚であったため、信号が直接古い脳に伝わる仕組みになったのだと思います。幼児期にまず優先する感覚が嗅覚で、これが身体全体の活動を誘導するといわれます。これほど重要な嗅覚が、何故か他の感覚より低くみられ、日常生活でもあまり話題に上らないのは何故でしょう。
 話は変わりますが、匂い(香り)には特許権がありません。パヒューマーをはじめ、匂いの専門家が、長い年月をかけて創作した努力の結晶である極秘の処方を、公開するわけにはいかないからです。実物を化学機器でいくら分析しても、香料の種類や配合を正確には解明できないそうです。不思議な世界です。
 そもそも匂いには名前がありません。色なら赤、青とか、音ならC、F♭のような呼び方がありますが、匂いには「バラのような」とか「硫黄のような」といった言い方しかありません。その上、匂いには無関係なのに「面倒くさい」、「けちくさい」、「素人くさい」、「古くさい」と続くと、あまりのひどい扱いに言葉も出ません。
 また、視覚ならば眼鏡、顕微鏡、望遠鏡など、聴覚なら補聴器、集音器、スピーカーなど、衰えた感覚を補強したり、強化するための器械がありますが、嗅覚に関しては存在しません。これも、匂いの正体や感じるメカニズムがよく解らないことに起因しているのでしょう。
 昔、ドイツを旅行中に、ライン河下りの船上でビールを飲んだときのことを思い出します。あまり冷えていなかったのでちょっと不満でしたが、突然あることに気づきました。それはビールの香りです。それまでビールとは「苦味と喉越し」一本やりで付き合ってきました。香りを楽しんで味わうなど考えもしませんでした。何ともったいない、野暮なことだとそのとき思い至りました。
 ソーヴィニヨン・ブランのテイスティングで、猫のおしっこの匂いに混ざって微かに火打石の香りを感じる、とまではまだいきませんが、嗅覚を仲間外れにせず、五感を鍛えて脳を活性化させ、大いに生活を楽しみたいと思います。