「不器用で美しい線」

野瀬純郎

 去る2月の中旬頃に両国幼稚園の作品展があり、本多夫妻にお誘いいただいて参観いたしました。いずれの作品も伸びやかな線と色と形にあふれ、眩しいほどで、思わず顔がほころんできました。そして、そのなかのある作品群が私を釘付けにしました。唸りました。それは紙で制作する版画です。
 モチーフは友達の顔です。目の前の友達の顔をよく観察しながら、画用紙から顔の全体、目、鼻、口、耳などの形をハサミで切り取ります。目の玉も鼻の穴もつくります。髪は毛糸です。すべてのパーツがそろいますと、大好きな友達の顔の表情をいきいきと感じながら台紙の上に並べます。ちょうど福笑いのような感じです。パーツの場所が決まると、のり付けします。その上にローラーでインクをつけ、さらに版画紙を載せて、バレンで擦って転写すると出来上がりです。小さな子どもにとってはかなりの工程になります。
 私が何に感動したかといいますと、その線の美しさです。4歳や5歳の子どもがハサミを使って、小さな顔の部品をひとつひとつ切り取るというのですから、容易に想像できると思いますが大変不器用でぎこちない線です。ですが何ともいえない、一途な、実に美しい線でした。一心にハサミを使う子どもたちの顔と手が浮かんできます。
 鉛筆やペンで線を描くと、そこにはさまざまな表情が現われ、視覚的、知覚的、直感的に、感じるというか、瞬時に読み取ることができます。力強い/弱々しい、スピード感がある/のろのろしている、繊細/図太い、自信に溢れている/不安を感じる、楽しそう/苦しそう、などなどです。描かれた線の特徴は描いた人の性格、体調、経験などの内側から生まれるもので、そこには他の人には生み出せない複雑な情報が沢山込められています。それらの情報が客体化され、見えるようになるのです。
 さて、ここで問題です。われわれ大人が先ほど紹介した紙版画をつくると、どのようなことになるでしょうか。顔というものについての知識とイメージは十分に持っています。ハサミもかなり自在に使えます。それらを背景にして、滑らかな線で切り取られたパーツが、左右ほぼ対称に、全体のバランスを考慮されて、さも顔とはこういうものだと言わんばかりの感じで配置されるでしょう。そうして出来上がった作品は、面白くもない、美しくもない、一種の記号に化した図形になると想像します。おそらく、あの子どもたちの作品が放つ力には到底太刀打ちできないでしょう。
 絵を描くレッスンのひとつに、利き手と反対の手で、あるいはスプーンや割り箸を使って、あるいは画面から目をそらして、あるいはモチーフを上下逆さまにして線を描くやりかたがあります。わざわざ描きにくい条件を課すのです。一体何がねらいか解りますか。そうです、左脳の働きを止めて、右脳モードになるためです。左脳はお得意の知識と経験から「××はこういうものである」という固定観念に凝り固まっています。その左脳が主人公になって絵を描くと、モチーフの××はろくに見ないで、頭の中にある固定したイメージをそのまま引き出してきて、紙の上をなぞるだけなのです。それをさせないために先ほどのややこしいことをやらせると、左脳はついていけないので口出しを放棄し、代わって何の先入観もない右脳が感じたままに、真剣に線の表現に打ち込みます。そして不器用ですがさまざまな感性に満ちた線が立ち現れるのです。改めて線の多様な表情を感じることができます。
 先ほどの作品展の会場では、園児たちの両親や家族の人たちが熱心に作品を鑑賞していました。「上手だね」とか「うまいね」という言葉が耳に入ってきます。そうではなくて、是非、不器用で美しい線を見つけてほしいと思いました。そして、子どもたちのこの素晴らしい感性が、失われることなく、さらに豊かに育まれるようにと願わずにはおれませんでした。それには何よりも周りの大人たちの感性が問われるのです。  私が描いた絵を見て、家人は「子どもの絵みたい」と言うことがあります。それを私は最高の褒め言葉と受け取っています。