「ピアニストに学ぶ」

野瀬純郎

 リストの“ラ・カンパネラ”やベートーヴェンの“ハンマークラヴィーア”を難なく?弾きこなすプロのピアニストは、その昔バイエルからツェルニーに進んだところで投げ出してしまった私と、どこがどう違うのでしょうか。そもそも比べてみようということが、おこがましいのは重々承知しています。ですが、単に才能の違いと片づけてしまう前に、指や腕の動かし方、脳の機能の働き方などに、何か根本的な違いがあるのか、それとも優劣の程度の問題なのか、ということがずっと気になっていたのです。予め断っておきますが、ここではあくまで物理的な運動の話に限ります。さすがに、いわゆる芸術性の問題には触れません。
 プロの演奏を聴いてすぐに気が付くことは、指がとてつもなく速く動くこと、非常に大きな音を出せること、そして安定して長時間弾き続けられることです。この辺りを少し観察してみましょう。
 超絶技巧と呼ばれる華麗な指さばきは、1秒間に数十回も鍵盤を打鍵します。何故これほど速く指を動かせるのでしょうか。指の筋力が並はずれて強いからでしょうか。いいえ、ピアニストと普通の人の指の筋力には、顕著な差は認められていません。実は、ピアニストとそうでない人の大きな違いは、脳の働き方にあるそうです。素早く、複雑に指を動かすには、当然のことながら沢山の脳細胞が活発に働きますが、そのとき活性化される細胞の数は、何とピアニストのほうがそうでない人より少ないというのです。つまり、ピアニストの脳は、膨大な練習の結果、より少ない細胞を効率よく働かせて、速く指を動かせるようになっているということです。訓練の足りない普通の人は、やたらにあちこちの脳細胞を、効率悪く使っているのですね。
 次に、大きな音をどのように鳴らしているのでしょうか。訓練で鍛えた、指や腕の力強い筋力によるものでしょうか。いいえ、前述のように筋力の強さは普通の人と変わりませんが、筋肉の使い方が異なるのです。指や腕に力を入れて鍵盤に叩きつけるのではなく、重力を利用して腕を落下させながら、肩から指先まで鞭のように大きくしならせるのです。決して力みません。ピアニストの肘から先の腕や指の小さな筋肉の仕事量は小さく、肩の大きな筋肉の仕事量は大きいということです。
 では、1時間半にも及ぶ演奏会を終え、疲れも見せずさらにアンコールで何曲も弾くという強靭さの秘密は、どこにあるのでしょうか。筋肉を構成する筋繊維には、縮む速度が速い“速筋”と、遅い“遅筋”の2種類があります。速筋は瞬発力を引き出すときに使われますが、疲れやすい筋肉です。一方、遅筋は持久力を引き出すときに使われ、疲れにくい筋肉です。短距離ランナーは速筋が発達していますし、マラソンランナーは遅筋が発達しています。そして、10本の指を目にも止まらぬ速さで動かすピアニストは、普通の人よりも、速筋ではなく遅筋が発達しているそうです。また、身体の筋肉というのは、胴体に近いほど太く疲れにくく、指先に近づくほど細く疲れやすくなっています。ですから、先に述べたように、ピアニストは疲れやすい肘から先の筋肉をあまり使わず、疲れにくい肩の筋肉を積極的に使って、長時間の演奏をこなすのです。
 さて、これらのことから一体何を学ぶというのでしょうか。そうです、勘のいい皆様にはもうお分かりになったと思いますが、ゴルフのスイングに大変参考になりますよね。……と、最初は思ったのですが、考えてみますと、上手な先輩たちからしょっちゅう注意されていることばかりです。曰く「力んじゃだめだ、力を抜け」、曰く「手で打つな、大きな筋肉を使え」、曰く「何も考えずに振れ」、……。

 ということで最初は「ピアニストに学ぶ」などと大上段に構えたものの、いまさら何を学ぶのか、目新しいことは何もないではないかと、最後は締まらない話になってしまいました。無駄のない、美しい身体の動きには、ピアノだろうがゴルフだろうが基本には共通したところがある、ということを再確認した次第です。ただしその基本に沿って、優れた力を発揮するためには、弛まぬ努力が必要なのは言うまでもありません。ピアニストは高度な技術を身に着けるために、小さいころから忍耐強く毎日何時間も練習を積み重ねています。「私が一日中練習しなかったとしたら、聴衆にそれが分かってしまうでしょう。(イグナツィ・パデレフスキ)」 嗚呼!