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東京東ロータリークラブの創立

我が国で最初に出来たロータリークラブは、東京RCで1920年。その後、順調に発展し、満州を含め48クラブを数えるようになった。しかし、第2次大戦を間近に控えた1940年9月、軍部の圧力もあって、RI(国際ロータリー)脱退を決議、解散に至った。
戦後、1949年、マッカーサーの支持を得て、札幌、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の7ヶ所にRCが復活。東京RCは、間もなく地域を分けて、東京北RC、東京南RCを設立させた。その後、1955年、東京北RCは江東5区を分けて、新クラブ結成を決議。当時、東京北RCのチャーターメンバーであった那波光正氏と、東京RCの元会長で南・北両クラブを誕生させ、新クラブ設立の名産婆役といわれた柏原孫左衛門氏が東京東RC結成の任に当たることになった。
やがて、会員候補者が22名になり、1955年4月8日、午後4時、上野精養軒で新クラブ結成式が挙行された。席上、会長・那波光正氏、副会長・前田武雄、幹事・小林卯三郎の3氏が指名され、理事には那波光正、中島亮、服部謙太郎、神守源一郎、近藤光正、前田武雄、丹羽芳雄の各氏が選出された。そして会の名称は「東京東RC」と決定した。6月30日、上野精養軒においてチャーターナイト(認証状伝達式)が挙行された。
(1991年4月12日 前田武雄君例会卓話より要約)

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第7代会長 神守源一郎 の話

[初年度・チャーターナイト(認証状伝達式)挙行]
初年度の思い出となると、当クラブのチャーターナイトのことであろう。
わがクラブは御承知の通り、昭和30年4月8日に結成され、同15日、第1回仮例会を開いた後、理事会(といっても全体会議だが)を開いて、一番先に話し合ったことは、ロータリークラブでは、チャーターというものをRI本部から貰ったら、仲間のクラブに盛大に披露するならわしがある。その披露式は、御世話になった柳瀬ガバナーの任期中に是非ともやりたい、やろうではないかということであった。
私は結成式の翌日から、隅々2日間に亘って日本工業クラブで開かれた第60地区協議会に早速出席するやら、2ヵ月後の6月16~17の両日に迫ったガバナー公式訪問(昔は公式訪問は2日間に亘ってあった。1日ですますようになったのは、神守ガバナーのときから)というものの意味を説明するやら、その準備をするやら大忙し。私は皆さんに頼まれて、何の委員会であれ、皆1人で下書きを作ってあげて、皆さんはそれを適当にガバナーの前で読み上げて貰うことにしたりした。
さて、いよいよチャーターナイトの準備である。先ず6月3日に小田原RCのチャーターナイトがあったので、当クラブからは、那波、中島、岩田各夫妻と私等7名で見学に行く。これは別のお話であるが、この式場で、当時の日本ロータリー界の大立物、手島知健パストガバナーが脳溢血で倒れられ、遂に再び立つことがなかったという大事件が勃発したのであった。
翌4日は例会日ではなかったが、全員招集して、報告やら打合せを行い、結局、自分がチャーターナイト準備委員会の委員長に祭り上げられてしまった。尚8日には新津にチャーターナイトがあるというので、自分に急拠それの見学に行くよう決議された。
仕方がないので7日の夜行で出発。翌8日は生憎の雨降りで新津RCには気の毒であった。東京東RCは未だ創立されて3ヶ月目の新クラブなのに、なにしろ、名にし負う大東京都のRCということで、すべては来賓扱い(尤もこれは当日の特別代表たる自分の旧知伊藤文吉新潟RC会長の特別な指示があったからかもしれないが)。壇上に柳瀬ガバナーを第一席とし、次に新津RCの共同スポンサーである東京RCの柏原氏、次に同特別代表伊藤文吉氏(この人は2年後にガバナーになる)と竝ぶ迄は当り前だが、その次の席が何と新米RCの自分の席であり、その次が本日の花形、錦織新津会長の席が設けられてあったのは、些か異例の処置でハレがましかった。帰京した翌日が丁度例会日(この日に北村修会員が入会)だったので、スグ全体会議を開き、汽車の中で考えてきた予算と組織、それに全員を割当て、各々急いで且つ強力に推進して貰うことにした。
それからは毎日のように各部門毎に会議が開かれ準備に励み、その年度の最終日である6月30日午後4時から上野精養軒で(今はなき旧館で)栄えある東京東RCのチャーターナイトが盛大に開かれたのである。

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第14代会長 佐藤 千壽 の話

[アジアで初めての国際大会]
入会したその年の7月からロータリー年度が変わって横山公雄会長になるのだが、12月の某日、例会開催直前に理事会があり、寝耳に水というか例会終了後に私が理事諸公の揃っている所に呼び出され、私に次年度幹事をやれという
冗談じゃない、入会してまだ1年にも満たないし、外に先輩が沢山居るのにそんなことは引受けられない・・・・と散々抵抗したら、「本人にぐずぐず言わせるやつがあるか、ロータリーは理事会が命ずる、でいいんだ!」と神守さんに一喝された。すると直前幹事の岡本さんが、「それなら私が副幹事になるから是非引受けて下さい」と言う。
仕方なく幹事就任ということになったのだが、後で気がついてみると、なんとその年度中にアジアで初めての国際大会が東京で開かれることになっていたのである。入会早々でそんなことは知らなかった。お歴々の深慮遠謀に見事に乗せられた形である。そして1960年7月、会長中島亮(旧東京日産社長)、佐藤幹事で発足してみると、国際大会の設営、外国人客の受入れ接待、会場の設営、宿泊等、東京クラブを中心に当時三多摩を併せてもわずか16しかなかったクラブが分担して引受けることになり、その為、都内のクラブ幹事は隔週に在京幹事会を開催するということになったのである。その頃は国際的な洋式ホテルは少なく、多くは日本旅館、それでも足りず会場の東京湾晴海埠頭に客船を停泊させて船から往復させるという始末であった(船中宿泊者は凡そ2,000人)。こうして1961年5月29日から6月1日迄、第52回国際大会が晴海で開催されたが、開会式には昭和天皇、皇后両陛下が御出席下さった。これはRIの大会として空前の盛会で74ヵ国23,370人という記録破りの成果をあげたのである。然し当時の東京にはたいした娯楽設備もなく外国人客ロータリアンに対するもてなしは専ら都心のクラブが分担して引受けるしかなかった。我がクラブとしてもこの年は全会員総力をあげて取組み、大会2日目の5月30日、会員36名、家族28名が164名の外国人客を「川甚」に招いて園遊会、茶会、晩餐会を催した。
この国際大会は大好評で「戦前にこれが日本で開催されていたら日米戦争など起こらなかったろう」という声さえ聞かれた。新米幹事も「やれやれ、これで荷が下りたと思ったらさにあらず、続いて次年度も幹事留任ということになってしまった。次年度会長に選任されたのが神守さんで、神守さんはまた「佐藤幹事留任を条件に会長を引受ける」と言張ったのである。こうなるとクラブの仕事はまだしも、国際大会の事後処理という厄介な仕事が重なってしまった。(『50年史より抜粋』)

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第20代会長 岩井 宏方 の話

[例会場を上野精養軒からホテルニューオータニへ]
私は1962年(昭和37年)5月4日、かねてからの友人で東京王子RCの幹事をしていたトンボ鉛筆の小川隆司社長から、東京東RCの当時の幹事であった佐藤千寿氏への紹介で、入会させていただきました。
私は東京東RCに入会しても、然るべき活動は殆んど致しませんでした。ただ、昭和39年、東京江戸川RC創立総会を同クラブで開催し、その設立代表の佐藤千寿氏と創立発起人故伊藤三好氏との関係で、江戸川区在住のRCの方々と数多く知合うことができました。しかし、東京江戸川RCへの移籍入会はしないで済みました。この点は東京東RCに、そのまま残ることができましたので、東京東RCの会員の方々と長らくご親交をいただくことができ幸せでした。
また、私の色々な方面の親友を、東京東RCの会員になっていただけるよう勧誘しました。例えば、幹事、会長、分区代理を務めた弁護士故田辺恒貞君や三菱油化エンジニアリング社長故村上貞雄君等々です。
しかし、良いことばかりではありません。私が会長をしておりました昭和50年、例会場を上野精養軒から現在のホテルニューオータニへ移した時には、会員の方々の退会をみたのは残念でした。長い間にはいろいろな事が起こります。
それにしても、社会的にも経済的にも色々な変化があったにも拘わらず、この50年にわたり、今日の東京東RCの発展経過は貴重なものであると確信いたします。(『50年史より抜粋』)

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第29代会長 加納 弘 の話

[日本のロータリーの創設者 米山梅吉]
私は1965年11月に東京東RCに入会させていただきましたが、自分の職業柄「創立時の学風や精神」が気になり、特に創設者の経歴に興味を持ちました。
日本のロータリーの創設者、米山梅吉氏は明治元年の誕生で、他界されたのは昭和21年の敗戦直後で、実に日本の歴史上、最も重要な時代に生を受け、努力・活躍された方であります。私は永井盛至氏の著書『米山梅吉とロータリー』を拝読してびっくりしました。まさにその一生はドラマチックな毎日であり、ロータリーの創始者にふさわしい方だと思いました。
ところがその頃、ロータリーは米山奨学会への募金に燃えているにも拘わらず、当クラブの先輩の方々に伺っても、米山氏の履歴を知る人々の少ないのに驚きました。そんなことから、7月、会長就任とともにクラブ週報委員の方々に集まっていただき、毎週、米山氏のプロフィールを4~5回、連載していただきたいとお願いしたところ、これが大当たり、当時手に入れた米山氏の著書、諸資料から勉強させていただきました。たまに週報に掲載されないと、先輩から「黙って休むやつがあるか、我々は毎週の週報を楽しみにしているんだぞ」と、お叱りをいただくほどでした。そうして例会は次第に米山氏の話が中心になり、家族会も墓参りに決定するなど、私はいつしかクラブのパストガバナーの故神守源一郎氏から「米狂(よねきち)」というニックネームを頂戴いたしました。
そして翌年4月、桜満開の頃、新幹線三島駅近くの米山翁の奥津城参拝に参加させていただきました。帰途、三島神社を詣でますと、境内の枝垂桜はまさに満開で、今はなき翁のお母上様(母上は三島神社宮司の娘)から「今日は遠路息子の墓参りにおいでいただき、ありがとうございました」と、言われたような気がいたしました。
今、考えてみますと、このような思い出がよみがえってきました。(『50年史より抜粋』

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第31代会長 牛込 公一郎 の話

[アフリカ・タンザニア国に救急車を贈る]
1985~86年度の東京東RCは、在籍会員数147名のクラブで、直前年度4月に創立30周年の記念式典祝宴を366人の参加者をえて盛大裡に終了し、1つの節目を越えたクラブとして、会員一人ひとりがロータリー活動に積極的であり、奉仕の精神に燃えていた時代であったと記憶しています。
この年度のE.F.ガドマンRI会長は「あなたが鍵です。ロータリーの基盤、その力、その良さは、ひとりひとりのロータリアンです。ひとりひとりのロータリアンこそロータリーの発展と奉仕の鍵です」と世界のロータリアンに呼びかけました。これを受けてクラブ会長は「進んで奉仕を 進んで友情を広め深めよう」を掲げ、私は49歳の若年会長でしたが、39歳の鈴木肇幹事とともに意欲に燃えていました。
年度始めには、世界社会奉仕(WCS)活動の一環として、アフリカ・タンザニア国に救急車を贈ることに成功しました。これは当時、タンザニア・アルーシャの国際会議場に常備する救急車がなく、現地アルーシャRCより黒河内大使を経由して要請を受けていたプロジェクトを実行したものでした。しかし、救急車1台及び予備部品1式の寄贈は、東クラブ単独で実施することは不可能なことでしたので、東分区9クラブに協力をお願いし、WCSの東分区共同プロジェクトとして実行しました。この時の東分区の各クラブの会長ならびに世界社会奉仕委員長の皆様の協力に、今でも感謝していると同時に、計画を達成した喜びを共有できたことを幸せに感じている次第です。
同年度5月、東京サミット開催のために例会場のホテルニューオータニが使用できなかった時に、世界のロータリアンに対して開いている東京東ロータリークラブの例会を休会にすることは出来ないと、東京商工会議所の国際会議場で移動例会を開いたことがありました。残念ながらビジターは一人も見えませんでしたが、ロータリーの『手続要覧』に対して、善し悪しは別にして、今では考えられない真面目さがあったと思います。
そしてこの年度は、会員の出席率も97%以上を確保し大幅に改善されました。また、各委員会活動も、この年度は極めて活発に展開されました。特に各委員会の東分区内合同委員長会議を開催し、当クラブが東分区の中心として9クラブをリードして活動した時代であったことを思い出します。(『50年史より抜粋』)

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第41代会長 古宮 誠一 の話

[15年ぶりの東分区IMのホスト]
2002~03年度は、当クラブが15年ぶりに東分区IMのホストを務める順番がめぐってきた年でした。当時は既に東分区は15クラブになっていました。2002年1月頃、私はIMの実行委員長を仰せつかり、IMの準備を始めておりました。その年度の地区ガバナーは前川昭一氏で「IMのホストクラブから分区のガバナー補佐を出すべし」というガバナー方針を出されました。そこで、当クラブからガバナー補佐を出さざるを得ないこととなり、急遽、私が任命されてしまいました。柴田達雄氏には分区幹事、副幹事には小林渉氏にお願いしました。そして、青木照吉氏がホストクラブ会長を務め、司会を幹事の三好徹氏が担当し、私がガバナー補佐としてIMを主催しました。IM実行委員長は私に代わり、1987~1988年のIMに続き、再び牛込氏が務めることになり、この年のIMも、すべて本クラブ関係者が主要な役を務めることとなりました。“東分区はひとつ”の合言葉の下、佐藤千寿氏の基調講演につづき、各クラブの参加を得てパネルディスカッションが行なわれました。
私はロータリー在籍33年間の間、東クラブの会員、先輩の方々との親交、親睦により、多くの方々と知り合いになり、親しい友も増えたことは大きな喜びです。そして、ロータリーの分区各クラブ、地区のロータリアンの方々との間で、今でも続いている交流は、ロータリアンでなければ味わえない貴重なことと思っています。 (『50年史より抜粋』)